三ヶ月坊主

個人的嗜好をSexyと戦わせるゆるオタク

(音楽文再録) よく回るのが季節とCD、枯れるのが紫陽花 〜Sexy Zone『夏のハイドレンジア』観察記〜

(2021年8月6日掲載) *1

 

 夏の気温が35度を超えても誰も驚かなくなろうと、雨がゲリラ呼ばわりされようと、よく分からない時期に雪が降っても、四季というものはこの国で信じられ続けるのだろう。どれだけ9月、下手したら10月まで暑さを引きずって運動会はこの時期避けようねとなっていても、「日本の夏とは6〜8月の事を指す」という認識は私の中で未だ強固に存在する。暦上の事は一旦置いておいて。

 このサブスク全盛時代に、アーティストがあえてCDを出す意味はなんなのか。色んな人が考えて、色んな結論にそれぞれ達している。私はまだ、「CDやレコードなどの形に残るものは全く出さなくていい、配信だけがいい」という結論に達した人はあまり見たことがない。採算が取れるのか心配しつつ、出してくれるなら出してほしい、自分の好きなアーティストのものだけは手に入れるから、という人が比較的多いように思う。好きなものは目に見える形で所有したい、という思いもまた、私の中で強固だ。

 Sexy Zoneの新曲『夏のハイドレンジア』のCDを手に取った時、私の中にずっと残るそんな思いたちが、かちりとこれまた強固に噛み合って嵌まり込んだ気がした。

 


 『夏のハイドレンジア』発売が発表されたのは6/9、まだ関東は梅雨入りする前だった。既に気温は30度近かったが湿気はさほどなかったカラリとした暑さの中、まず楽曲提供した秦基博さんのコメントを読んだ。「ハイドレンジア」という聞き馴染みのない単語は紫陽花の洋名である事。この曲が主題歌に採用されたドラマのヒロインを、都会の雨の中で凛と咲く紫陽花に見立てている事など。

 コメントを読んで、今はまだ来ていない梅雨、今はまだ咲き始めたばかりで見頃は迎えていない紫陽花に思いを馳せた。この曲が発売される頃にはどちらも終わっているだろうとも考えた。まだ遠い先だった。発売される頃のむせ返るような暑さと、暴力的なまでの太陽光の事を想像して、そろそろエアコンのフィルターを掃除せねばと思った。まだ窓を開けて風を通していれば快適だったが、そうもいかない暑さが来るのは知っていた。

 


 試聴が始まった6/16には既に関東は梅雨入りしていた。この曲の音がみずみずしさに満ちていると思った。それはピンと張りのいいベース音のせいかもしれなかったし、流れるようなストリクングスのせいかもしれなかったし、零れるようなはなやかさを保ちつつ凛と澄んだ歌声のせいかもしれなかったし、イヤホンを耳にした私の頭上にかぶさっていた今にも降り出しそうな色をした雲のせいかもしれなかった。

 


 気温はあまり上がらずたまに晴れ間も出る快適な日が少し続いた6/25には、一緒にCDに収録されるカップリング曲のタイトルが解禁された。勿論今回も表題曲を引き立たせるだけのかすみ草のような存在にはとどまらないだろう、でもかすみ草も単体で私好きなんだけどそれはまた別の話、とは事前に思っていたが、まさか「神はサイコロを振らない」さんがとびきり目立つ花を贈ってきてくれているとは思わなかった。

 


 この曲が初めて本格的に披露されたのは7/3、関東は梅雨の真っ只中で、気温は上がらず一日雨が降っていたように思う。エアコンのフィルターは一度掃除したもののしばらく使っておらず、この湿気だとカビでも生えてきそうだと思っていた。生放送の音楽番組でSexy Zoneのメンバーがその天気にふさわしくしっとりと歌い上げているのを眺めながら、今発売すればいいのに、と思った。Sexy Zoneの歌声には憂いがあって、でも最後には"晴れ渡るフィナーレへと手を引いて連れていくから"と希望を感じさせる声で歌っていて、このどんよりとした天気の中で聴くのにまさにぴったりな曲だと思った。

 最初は聞き馴染みのなかった"ハイドレンジア"という言葉にも、だいぶ耳が慣れてきていた。もう街中のどこで耳にしても、すぐに紫陽花の事だと気付けると思った。見頃は少し過ぎたものの、今年は紫陽花を街中でよく見かけるとも思った。見かけるたびに『夏のハイドレンジア』の事が脳裏をよぎって、例年より色濃く見えた。

 


 MVが公開されたのは7/12、関東はまだ宣言こそされていなかったが、気温は30度を超えて晴れ渡り、もう間もなく梅雨明けかと思われた。学校を舞台にしたMVは、プールや暗い教室など、どこか冷んやりと感じられる背景も多かった。この頃になると、ドラマに間に合うように急いでシャワーを浴び、エアコンの効いた室内で部屋着のTシャツを被りながらテレビの前に座る火曜日にもすっかり慣れていた。毎回ドラマがいい所で終わり、もう何度も聴いた歌い出し"ハイドレンジア"の特徴的で美しいフレーズが、絶妙な案配で映像に挟まる。

 もう近所の紫陽花は、ほとんどが枯れて葉だけになっていた。

 


 発売日…の前日、8/3、これを書いている今日、関東はとうに梅雨明けして空は晴れ渡り連日のうだるような暑さ、落ちた葉をしばらく置いておいたら焦げてしまうのではないかとすら思わせる灼熱のコンクリート、それを踏みしめて帰りを急いだ。腕には買ったばかりで包装されたままのCDが入った袋がぶら下がっていた。早く家に帰って開いてあげないと枯れてしまうような気がしていた。花は持ち運ぶ時は逆さに持ってあげたほうがいいと言うが、CDはどう持つのが良かっただろう。

 当然だが、CDは枯れない。今年の紫陽花がとっくのとうに全て枯れても、大事に保管して再生機器さえ用意すればいつでも、どこでも、いつになっても聴く事ができる。無事に持って帰ってこれたCDは今、私が一つだけ持っているCDプレイヤーに生けてある。私のこの2021年夏の記憶をたくさん含んで、何回でも回る。

 焦らしに焦らされてようやく手に入れた"晴れ渡るフィナーレ"の季節だ。

*1:他の再録と異なり、これだけ音楽文サービス終了前に最終稿を保存し忘れた為、手元に残っていた投稿前のデータとなります。